G式過剰



第29ステージ
『大人の器』

 いつもながらに悩みはつきない。世の中は疑問で満ちている。
 というわけで、最近の疑問は「大人にとって相応しい筆箱とはどういうものか」ということだ。

 誰しもが感じていることだろうが、日常生活において、文字を書くという機会はテキメンに減った。いや、文章を書く時間は確実に増えているのだ。仕事の場、しかり、このような私的な学術研究の場しかり。しかし、ペンを使ってリアルに文字を書くことはどうだろう。減っている。これは厳然たる事実である。
 ところが、である。減ったからといって、まったくペンを用いなくなったかというと、もちろんそんなことはないのである。会議や打ち合わせや、はたまた旅のお供にと、ペンが活躍する場はまだまだ健在である。

 さて、ここからが問題なのだ。これら筆記用具を我々はいかに持ち運ぶべきなのか。
 スーツの胸ポケットに、あるいは鞄のホルダーに、ボールペンなり万年筆なりを忍ばせる。これが、ホテルやショップでのサイン程度なら十二分に事足りるし、スマートではある。そういう場面であるならば、私はなんのためらいもなく(というと若干のウソが入るが)、そのように持ち歩くであろう。
 しかし世の中はそんな場面だけでないことは誰でも知っている。そして実に逆説的ではあるが、ペン1本ですむような場面ではたいてい、ペンが備え付けてあり、あえてマイペンを持ち歩く必然性も(自己のファッションスタイルとして以外)ないのである。

 では、持ち歩く必要はないのか。そんなことはないことは、あらためていうまでもない。会議や研修などでは、自らペンを保って行かねばならない。しかも、そういうシチュエーションにおいては、往々にして、シャープペンシルや消しゴム、ラインマーカーや数種類のカラーボールペンが必要、あるいはあったほうが格段に便利なのである。果たして、いったいこれだけの筆記用具を胸ポケットに忍ばせていけとでもいうのだろうか。あるいは、鞄の中に散らかしておけとでもいうのだろうか。

 やっと話の核心にたどりつくことができたが、ようするに筆箱なのである。筆箱に入れて持ち歩くことの有用性がお判りになったかと思う。
 ところが、だ。もう気づいていただけたかと思うが、いったい自分はどんな筆箱を持ち歩けばよいのだろうか。大人として、社会人として、ビジネスマンとして、そしてなによりスマートでソフィスティケーテッドな紳士として、いったいどのような筆箱を持ち歩けばよいのだろう。まさか小学生のプラスチックケースを使う人もいないだろう。さりとて缶ペンケースやキャンバス地のペンケースは高校や大学生のもので大人が使うべきモノではない。
 あらためて考えると、これぞ『大人の筆箱』というモノが思いつかないのである。あえていうなら本革製のペンケースであるが、巷に販売されているそれはあくまでも数本のペンを刺すためだけのモノで、消しゴムなどの小物までをフォローしてはくれない。

 スポイルされている。筆記用具は大人の世界からスポイルされているのだ。

 つまりは大人は筆記用具を持ち歩かないことが前提となっており、ゆえに大人向けの筆箱もない、ということではなかろうか。確かに普段は持ち歩く必要はないのは事実だ。しかしだからといって皆無ではないのだ。世の中において“ない”と云いきれるものなどないのだ。
 いや、あるいは。あるいは筆箱がないから、ペンを持ち歩くこともなくなったのかも知れない。人は思いの外、スタイルから入るものである。そのスタイルがないからこそペンも持ち歩けない。ゆえに字も書かなくなっていく。これは日本語にとって実に由々しき問題ではなかろうか。

 とりあえずは、大人が持ち歩くに相応しい筆箱が必要なのだ。そして、私の納得する結論はいまだ見つかってはいない。

 ということで今回の教訓は“悩んだ末、結局100円ショップで買うのは堕落”ということである。

2003年11月5日

G式過剰