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社会勉強

 拝啓。  ご無沙汰しております。卒業からはや2年が過ぎました。先輩と過ごした学生時代を懐かしく思い出します。私も会社に慣れ、遊ぶ一方だった学生のときとは違う、仕事の面白さもわかってきたところです。
 私は現在、流通業界に勤めており、しかも部署は企画部門です。先輩も驚かれておいででしょうが、実際のところ自分自身でも驚いております。
 仕事はとても忙しいです。不況とはいえ、いえ不況だからこそ、慎重な調査分析が必要となっており、寝る間もない状況です。少々愚痴っぽくなってしまいましたが、しかしやりがいもあり、元気にやっております。

 以前、我が家に訪問していただいたとのこと。お会いできず残念です。その頃、私は中部地区営業所で初年度研修のため、半年間、寮生活をしておりました。研修とはいえ、仕事です。慣れない販売業務や経理の基礎勉強なども遊び半分では勤まるものではありません。今でこそ懐かしい思い出となってはいますが、その時は学生時代の気楽さと180度異なる世界に戸惑いと焦りを感じたものです。
 そうそう、研修生活といえばこんなことがありました。うちの会社は、ご存じのように流通ですから現金を取り扱うことも多いのです。その額も普段の生活ではちょっとなかなか出会うことのないような額で、はじめはかなり緊張したものです。もちろん数カ月もすると札束もただの紙切れに見えてくるのが恐ろしいところで、小銭などはもう石みたいなもので、手掴みでガサッと。そんな感じになってしまいます。いえ、正確にはもともとただの紙切れや金属片に価値を設定しているだけ、所詮はただの紙切れにすぎないということを実感したとでもいいましょうか。なんてちょっと気取ってしまいました。

 ともあれ、そんな大金を扱うにはそれなりに素早い勘定ができなければならないわけです。これをサツカンといいます。そう札の勘定ということです。ほら銀行員さんなどがお札を数えるアレです。その方法も2種類あって、タテカンとヨコカンというんですが、タテカンというのは束ねたお札を折り曲げて数える方法。ヨコカンは扇のように広げて数える方法のことです。それぞれメリットデメリットがあるのですが、私の部署ではそれほど大きい現金を扱うことはないのでタテカンで十分なのですが、それをマスターするために研修初日から1週間みっちり練習させられました。

 これからが本題なのですが、大きい額を指ではじいて勘定していると、けっこう没頭してしまうのです。別のことを考えながら数えると間違えてしまうので、それなりに神経を集中させて数を数えるのですが、これが催眠効果を持っているのかも知れません。そのせいで、同期のひとりがちょっとへんなことになってしまったのです。
 彼はこんなことを言い出したのです。
「札が喋りだした」
 なにを言っているのかと思うかも知れませんね。札を数えているとその絵柄はパラパラと流れていきますよね。ちょうど人物のところで。それがちょうどパラパラマンガのような感じになるわけです。もちろん絵に違いはないわけですから、絵が動くということがあるわけはないのですが、札の束ねの多少のずれで微妙にぶれる感じがいかにも絵が動き出しそうな印象になるのは事実です。実は僕もそんな思いにかられたこともあったので彼の気持ちが多少はわからないでもないのですが、しかし彼が言うには、
「いや、確かに話している。俺には彼の言葉が聞こえる」
 その真剣な口調に僕は怖くなってしまった。新しい環境に慣れずストレスがたまってとんでもないことになってしまったのではないか。
 そんな状態が数日も続いたでしょうか。彼の思い込みはいっこうに直る様子もなく、このままでは指導の先輩に相談しなければいけないだろうと、同期の奴らと話していた矢先、彼の言動はまた変わりました。おかしなことを口走ることもなくなり、まじめに研修に取り組むようになっていったのです。
 直ったのかと思ったのですが、どうやらそうではなかった。彼は今度は自分から率先して札勘の練習をするようになりました。前はあれほど不気味がって避けていたのに。窓口に座り、暇さえあればパラパラと札を指ではじく姿がありました。時折小さく頷いたり、独り言をつぶやいたり。お客様も訪れる窓口です。これじゃ前よりたちが悪い。さすがに先輩もそんな様子に気づいて、カウンセリングを薦めたのですが、彼は「なにも問題はありません」と云うのみでした。

 ある日、突然、彼は会社をやめてしました。社会人として働くということは思った以上にストレスを生むのかもしれません。私自身、ある程度仕事にも慣れ、その分いろいろと思うところが多くなってきた時期でもあり、社会の厳しさ難しさを肌で感じた出来事でした。

 話が長くなりました。今年のGWには休みがとれそうです。もしお時間があうようでしたら、お会いできれば幸いです。それではまた。
草々。

追伸
 そうそう、前述の彼ですが、ささやかな送別会の席で、
「人生は生涯、勉強なんだよ」と晴れやかな顔つきで語ったことを思い出しました。ちなみに現在、彼は都内の大学に再入学し、新しい学問への道を進んでいるそうです。


(2000.05.25脱稿)
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